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こんにちは、地域づくり支援専門員 今野です。
浪江町の帰還困難区域でも来春、5年近くに渡って整備が進められている特定復興再生拠点3カ所(室原、末森、津島)で避難指示が解除されます。住民の帰還に向け9月1日からは準備宿泊も始まっていますが、避難先で暮らしが固まったことなどで、寝泊まりしながら帰還の準備を進める方はまだ数えるほどしかいない状況です。
津島地区でも避難指示が解除されるエリアは全体の面積の1.6パーセント程度で、まだまだ手つかずの地域がほとんどというのが現状です。
「集会所の様子を一度見に行くか」ということで南津島下行政区の三瓶禎信区長にお声がけいただき、南下コミュニティセンター*を視察してきました。
(*南下-みなみしも-は南津島下の略称)
特定復興再生拠点のエリア外に位置しますが、山火事など災害時の避難場所等として集会所も来春には避難指示が解除されます。いわゆる「点拠点」と呼ばれる、部分的な避難解除です。そのため既に一通りの除染は済んでいるということでした。
南津島下行政区では長らく沢先(澤先)集会所が利用されていましたが、老朽化し、平成21年に新たな集会所として南下コミュニティセンターが完成しました。10年以上の年月が経っていますが、ほとんど利用されないままだったことで、まだまだ新しいというのが第一印象です。
しかし一歩室内に入ってみると、避難所として活用された状態で時が止まった、原発事故後の手つかずのままの状態でした。
当時持ち込まれた新聞や、使用したお皿や調味料などはそのままになっていました。
ホワイトボードに書かれた呼びかけ文からも、切実な様子がイメージできます。
「特定復興再生拠点の解除にともない、この集会所が点拠点として避難指示解除されるのであれば、何か集まりなどで交流したい」前区長の時からたびたび、ご相談を受けていました。
まずは井戸の復旧や、大掛かりな掃除などが必須のようです。
原発事故前に地域活動が行われていた際は、反省会と名売って交流会を毎回開いていたそうで「まずは集まれるようになりたいな」などと三瓶区長は話していました。
沢先集会所もこの秋には解体される予定だということです。
避難しながらも生まれ育って親しんだ土地で、ほっとしながら集まる場をどうつくれるか。区長といっしょに今後も考えていきたいと思います。
こんにちは、地域づくり支援専門員の引地です。
暑い夏が終わりようやく9月に入りました。皆さん、9月1日は何の日か覚えていますか?
ニュースでも多くとりあげられていましたが、防災グッズの中身を確認した!という方も多いのではないでしょうか。
9月1日、防災の日です。
幾世橋住宅団地のらいふく自治会では、9月3日に防災をテーマにした交流会が開催されました。
防災の日近くの週末に開催しようと、自治会役員の皆さんで2ヶ月前から計画を進めてきました。
今回はその様子をお伝えします。
会場は、幾世橋小学校跡地に完成した『幾世橋防災コミュニティセンター』です。
自治会長あいさつの後、町防災安全係よりハザードマップの説明やテーブルごとにグループワークを実施。
グループワークでは、警報レベルに合わせ自分自身はどんな行動をとるか、何を持参するか等、意見を出し合います。
「近隣の高齢者に、いざという時の移動はどうするかを聞いておこうと思います」
「ペットと一緒に行動したいので、早く避難しないといけないかな」
「メガネ、電話、薬、、、あ!マスクも何枚か必要だね」
同じ住宅に居住している皆さんだからこそ、行動や特定場所について話しやすく、より具体的な動きの確認になっているようです。
この防災コミュニティセンターですが、会合などの機会がないとなかなか施設内に入るチャンスがないようで、大半の方が初めて入ったとのことでした。
皆さんで施設内をひと通り見学しながら設備や備品を確認し、「毛布などは備蓄しているの?」「テントは何人まで寝るスペースあるのかしら」など質問が飛び交いました。
最後は皆さんでお弁当を食べ交流タイムです。
黙食ではありますが、皆さんで一緒にお弁当を囲むのは、2020年の自治会発足後初めてのことでした。
ご近所の皆さん同士で顔を見ながら食事をすることで、つながりがゆるやかに育まれ、いざという時の共助に大いに役に立つのではと感じた自治会活動でした。
こんにちは、地域づくり支援専門員 今野です。
8月下旬、福島市の県青少年会館を会場に、東北学院大学文学部歴史学科の学生が南津島の田植踊りを学ぼうと取り組みました。詳しくお伝えします。
「南津島民俗調査プロジェクト」と題された今回の取り組みは、宮城県にある東北学院大の学生が4日間のスケジュールで南津島郷土芸術保存会の皆さんと交流し、田植踊りを学ぶといったもので、取材にうかがった最終日の8月28日は17名の学生が熱心に田植踊りを学んでいました。
きっかけは学生のひとり、今野実永(みのぶ)さんの提案でした。実永さんは原発事故で避難する小学2年生まで南津島で暮らしていました。田植踊りの経験はありませんでしたが、中学3年生の時に二本松市で南津島の田植踊りを記録撮影する機会があり、その時初めて「ささら役」を務めました。
その時の会場には地元の皆さんが集まりました。田植踊りを数年ぶりに観た祖父母の世代の方などから、泣きながら「ありがとう」と話しかけてもらった実永さんはとても感激し、高校に入ると「どうやったら民俗芸能を継承していけるだろう」と考えたそうです。
原発事故が起きた当時、関東の大学で教壇に立っていた金子祥之先生も「都会に出た学生が都会で就職してしまう。民俗学を教えるものとして、地域に根付く何かができないものか」と考えていた一人です。ちょうど東北学院大学で教職を募集していることを知り「ここなら東北に根付く取り組みができるかもしれない」と同校の准教授となりました。
「民俗学を学びたい」と強く思うようになった実永さんは、東北学院大学で学べることを知り受験。金子先生に「南津島の郷土芸能を何とかしたい」と訴えました。
取材したこの日は、保存会の三瓶専次郎会長ら10名が会場に足を運び、学生の間に入るなどして熱心に指導しました。学生も事前に唄の歌詞を覚えるなど準備に取り組んでいました。会員の方に感想を聞くと「さすが若い。覚えるのが早い!」などとおっしゃっていました。
来春に解除が予定されている津島の特定復興再生拠点では、9月1日に準備宿泊が始まるなど少しずつ動きが出始めているものの、解除される面積は津島全体の1.6パーセントです。南津島上・南津島下の行政区でも拠点外となるエリアが多く、まだまだ先が見えない状況と言えます。
4日間のスケジュールを終えた実永さんは「授業からサークルの立ち上げなども含め、南津島の田植踊りに継続的に取り組んでいけるような土台づくりを在学中にしたい」「卒業後も関わりながら確立させたい。最終的には50年後に南津島に住んでいる人が田植踊りを継承したいとなれば、大学から南津島へと田植踊りを戻すような、そんな形の継承をしたい」など、力強い言葉で自身の考えを話しました。
まだ大学2年生なのに、数十年後の将来まで見据えたその想いには圧倒されます。
民俗芸能はその地に根差したものであるため、金子先生ら大学側では「宮城県の大学で学んで継承していこうとするのは、いかがなものだろう」という考えがあったそうです。保存会でも悩んだそうですが「一度、チャレンジしてみよう」となり、この日につながりました。
1回20分以上ある南津島の田植踊りに、この日の午後は3回取り組みました。最後にはだいぶ形になっていたと思います。保存会の皆さんも額に汗しながら、学生たちを眺めるその表情はとても嬉しそうでした。
三瓶専次郎会長は「着物(衣装)を着て踊ってみたり、引き続き指導できるようにしたい」などと話していました。実永さんも「いずれは津島の皆さんの前で披露できるようになれば」と目標を掲げています。
継承に難しさを抱える中、新たな切り口の取り組みとしてコミュニティの維持にもつながっていくかもしれません。今後も注目していきたいです。
南津島の郷土芸能の様子はこちら
2019年12月2日掲載 南津島の神楽(令和元年十日市祭)
2019年2月16日掲載 南津島の田植踊りが披露されました
こんにちは、地域づくり支援専門員今野です。
浪江町の帰還困難区域のうち、特定復興再生拠点(以下、復興拠点)3地区はいよいよ来春に避難指示が解除される予定となっています。
復興拠点では解除に向け、9月1日から「準備宿泊」が開始され、希望する方は自宅に寝泊まりができるようになります。
準備宿泊まであと半月を過ぎた8月の中旬、津島地区の津島行政区内を、今年度から行政区長を務めている氏家髙志区長にご案内いただき集会所を中心に視察しました。
津島行政区の集会所は既に除染も済んでおり、復興拠点内に位置しています。
津島地区内で一番住民が多い津島行政区は130戸の世帯があり、そのためでしょうか、室内はかなりの広さがありました。
東日本大震災と東京電力福島第一原発事故直後は、町から津島地区に町民の皆さんが避難をしてきました。小学校や中学校も避難者であふれる中、各行政区の集会所が避難所として活用されました。
区長の話によると「トイレもあって暖房も機能していたし、避難してきた人は快適に過ごせたと思う」とのことでした。住民の方で炊き出しなど対応したそうです。
「3日ぐらい避難所として開放したと思う」とのことで、配達できなかった新聞でしょうか、まとまった部数が3月14日付けの紙面まで置いてありました。
震災前、集会所の敷地はゲートボールの練習場として、また夏には盆踊り会場として活用されたそうです。
倉庫には他所から譲りうけたものも含めて盆踊りの櫓(やぐら)が3つ、収納してありました。
お墓も近く、お墓参りの時には駐車場として停める方も多かったそうで、区長は「除染が済んだ集会所を、トイレやエアコンなどを修繕・整備して、お墓参りの時に休めるようにできれば」などとおっしゃっていました。
「散り散りに避難して、再開が難しい」とおっしゃる田植踊りや三匹獅子などの衣装、道具も保管されていました。震災前は行政区内の津島稲荷神社でお祭りがあり、その際に踊りを奉納していたそうです。
その津島稲荷神社を訪ねてみました。
砂利も敷かれ、側溝が整備され、法(のり)面も芝が植栽されたりなど綺麗になっており、今後、神社自体の再建も進めば良いなと感じました。
津島行政区では復興拠点に入っているエリアと入っていないエリアがあります。復興拠点の面積は津島全体の1.6パーセントと、来春解除されるのはごくわずかのエリアで、また、解体が済んだ家も多いことなど、帰還される方がどのぐらいいるのかも分からない状況です。
「もっと早く除染を進めてもらえれば、帰ることも考えられたのに」とおっしゃる方がほとんどで、全くその通りだと思いますが、一方で何か少しずつ変化も出てくるのではと思っています。
引き続きブログでも、復興拠点や帰還困難区域の状況を発信していければと思います。
地域づくり支援専門員の吉田です。
今回から2回に続けて「国玉神社」についてお伝えします。
国道114号沿いにあり、多くの方がご存知の「国玉神社」は、平将門を祭神として祀り、長年にわたって川添地区の住民に愛され続けている神社です。
東日本大震災で倒壊した後、住民である氏子の方を中心に、2016年から話し合い、2019年には「再建委員会」が立ち上がり、昨年2021年から建設が進んでいました。
神社再建には、100人を超える方からの寄付、川添行政区の浄財が活用され、今年5月に完成し、震災前例大祭が行われていた7月17日、この日は、氏子など住民約60人近くが各地から集まり、遷宮祭が執り行われました。
▲2022年5月に完成した國玉神社
遷宮祭とは、神体を遷(うつ)し奉る祭儀をいう。神殿の改築・修理にあたって、一時仮殿(かりどの)へ神体を遷すこと、また、竣工(しゅんこう)となった神殿へ仮殿から神体を移座する祭儀。
再建委員会委員長で川添北行政区の大和田区長宅から、宮司や氏子の皆さんが国玉神社へ行列になり向います。
▲社殿へ到着し、井瀬信彦宮司によって祝詞の奉納など神事が行われました。▼
▲川添芸能保存会から奉納の挨拶
神事の後は、川添地区で伝統芸能となっている「川添芸能保存会」の神楽が、震災後初めて社殿へ奉納されました。
川添神楽は明治40年頃から始まったと言われており、「幕舞」「幣束舞」「鈴舞」「乱獅子舞」の4つの舞を踊ります。
▲ この地ならではの「乱獅子舞」は「川添繁栄、大繁栄」と掛け声を響かせ盛大に舞います。
神楽の奉納の後は、宮司・氏子総代・再建委員代表から挨拶がありました。
境内の中には、震災や避難地域になったことを記した再建記念碑も設置されています。
浪江町に訪れた際は、是非ご覧になってみて下さい。
川添地区の拠り所として、これからも歴史を刻まれていく国玉神社について、またお伝えしたいと思います。